いのちの言葉 6

 
互いに平和に過ごしなさい (マルコ9・50)

地球上のあちこちで起こる紛争によって、人類が傷ついている現代、このイエスの平和への招きは心に響きます。平和そのものでおられるイエスが「私の平和をあなた方に与える」と約束して下さったことを思うとき、心に希望が灯ります。
今月のみ言葉を伝えるマルコの福音の中では、カファルナウムの家に集った弟子たちにイエスが共同体としてどのように生きるべきかを説明しています。そして最後にイエスは、平和のうちにあらゆる善が内在するので、何をするにも平和を実現するために行うよう結論づけています。
ところで、平和というとき何を思い浮かべるでしょうか。実は、私たちは、家族や職場といった普段の暮らしのなかでも、あるいは又、政治的な考え方が違う人との間でも平和を体験するように招かれているのです。本物の深い一致を望むのであれば、相手との意見の違いを恐れずに心を開いて話し合うことも必要でしょうし、また、愛を土台にした関係が損なわれないよう心を配ることも、平和を生きることになります。なぜなら、お互いの違いよりも、もっと尊いものは「相手の存在」だからです。
「一致と相互愛があるところにはどこにでも、真の平和がもたらされます。お互いに愛し合うところに、イエスが何らかのかたちで現存されるからです。イエスこそ、平和そのものであるお方です 」とキアラ・ルービックは語っています。
キアラの一致の精神は、第二次世界大戦のさなかに生まれ、憎しみや悲しみを癒す精神として人々の目に映りました。以来、彼女は、世界で紛争が起こるたびに福音的な論理、愛の法則を提唱し続けてきました。一九九〇年にイラクで湾岸戦争が勃発した時、キアラはこう語っています。「敵、憎悪、戦場、捕虜、敗退など、すでに葬り去られたと思っていた言葉を再び耳にした時、心に強い痛みを覚えました。そして、私たちの心の中でキリスト教の根本的な精神であるイエスの『新しい掟』が傷つけられているのに気付き愕然としました。お互いに愛し合い、お互いのために死ぬ覚悟でいるべきなのに。再び、人類は『憎しみの闇』の中に閉じ込められてしまいました。」 と。彼女はその当時も、どうしたら人類は蔑み、拷問、殺し合いという闇から抜け出せるのか?と自問しました。そして語っています。「私たちキリスト者は、他の一神教のイスラム教徒やユダヤ教徒の人々と、言い換えるなら、当初敵対関係にあった人々との間にもできるだけ新しい関係を築いていく必要があります。もし、お互いによい関係がすでにあるなら、それをさらに深め向上させていかなければならないのです。」 と。
同じことがどんな争いを前にしても言えるのではないでしょうか。人と人との間、民族の間で、お互いに相手の話に耳を傾け、助け合う愛の関係をつくりだしていくことが必要なのです。キアラは今も「お互いのために命を差し出す覚悟で愛の関係」を築いていきなさい、と助言してくれることでしょう。たとえ、相手と心底分かり合えないにしても、相手を理解するために、自分の考えをいったん脇に置く必要があります。もしかすると、相手も私の考えや私の話をすべて理解できなくても同じようにしてくれるかもしれません。ですから、たとえお互いの間に違い、あるいは誤解があったとしても、相手との関係を最優先させ、相手に対していつも心を開いていたいものです。
今月のみ言葉は「平和に過ごしなさい」というイエスの命令でもあります。そのために真剣な努力がいるということでしょう。実に、平和は私たちが保つべき「愛と慈しみ」の本質的な表れだからです。

ファビオ・チャルディ神父

*2016年度の「いのちの言葉」は、フォコラーレ本部のファビオ・チャルディ神父によります。

いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。


[1] スイス・バイエルンTVのインタビューより(1988年9月16日)

[2]1991年2月28日のスピーチ、著書『Santi insieme(共に聖人になる)』p.63-64チッタ・ノーバ社1994年参照

[3] 同上p.68

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