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聖書の時代のイメージ、たとえば遊牧民のゆっくりとした時間の流れる生活を思い浮かべるとき、効率性や競争力が追求される私たちの日常生活とは、ずいぶんとかけ離れているように思えます。それでも、今だからこそ、私たちもちょっと立ち止まり、一息をつける場が必要です。そんな場で、自分をありのまま温かく受け入れてくれる誰かに出会いたいと思うのではないでしょうか。
今月の「いのちの言葉」が引用されているヨハネ福音書の長い一節には、そのように私たちを迎え入れてくださるイエスの姿が登場します。
他の誰よりも私たちを歓迎し、回復のための休息だけでなく、ご自分の命をも与えてくれる存在としてのイエスです。さらに、神が預言者たちを通してイスラエルの人々に約束されたように(1)、私たち一人ひとりの人生のただ中に、神が確かに存在されることを、イエスご自身が断言なさいます。
イエスは、ご自分の羊たち、疲れ果てて、ときに迷子になっているご自分の民を知っており、愛しておられる羊飼いであり導き手です。その姿は、群れの必要を無視するようなよそ者や、群れを襲って殺したり散らしたりする盗人や山賊、はたまた金銭を得るためだけに行動する雇い兵などとは真逆のものです。
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
イエスがご自分のものと呼ぶ羊の群れとは、第一に弟子たちと、すでに洗礼の賜物を受けたすべての人たちを指しますが、それだけではありません。イエスはすべての人を知っていて、その名を呼び、一人ひとりを優しく世話してくださいます。
真の羊飼いとして私たちをいのちへと導き、道を踏み外すたびに探しに来られます(2)。さらに、御父のみ旨が成就するために、イエスはご自分の命をすでにお捧げになりました。私たち一人ひとりと御父との交わりが満ち満ちたものとなり、罪によって致命的に傷つけられた兄弟愛を回復するためです。
私たち一人ひとりは、神様の声を聞き分け、自分に向けられたみ言葉に信頼を持って聞き従うことができます。何よりも「私は良い羊飼いだ」と言ってくださる方に、無条件で愛され、理解され、赦されていることを確信することができます。
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
私たちの人生において、そこに静かで、力強いイエスの存在を少しでも体験するなら、きっと誰かにそのことを分かち合いたくなるのではないでしょうか。そして、もっともっと隣人を気にかけて、温かく迎え入れたいという熱い思いが心に灯ることでしょう。
またイエスに倣って、家族、職場の人、近所の人たちをもっとよく知るように努め、相手が求めることに自分を合わせることができるようになります。
愛は私たちの想像力をさらに膨らませることができます。いろんな人と手を携えて、共に働くやり方も生み出せるでしょう。たとえ小さな形でも、人々の歩みに忍耐強く、勇気を持って寄り添える共同体、兄弟愛のうちに開かれた共同体を築くことに貢献できるでしょう。
キアラ・ルービックは、福音書のこの同じ箇所を黙想しながら、次のように書いています。
「イエスはご自分について、『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』(ヨハネ15:13)とはっきり語られ、また実際に、その命をお捧げになりました。
イエスの愛は、自分自身を差し出す愛、つまり自分の命を捧げ、与える準備が実際にできている愛です。…神様は私たちに対しても、ご自分の愛と同じ尺度で愛すること、愛の行いをすること、少なくともそのような意向を持ち、そう決心することを求めておられます。「キリスト教的な愛」と言えるのは、このような愛だけです。それはちょっとした表面的な愛ではなく、命を賭けるほどの大きな愛です。… このような生き方をするなら、キリスト者としての私たちの生活は、充実し、すばらしく向上するでしょう。そして、地上のあらゆる所から、すべての人がイエスの声に引き寄せられて、彼の周りに集まって来るのを目にすることができるでしょう。」(3)
レティツィア・マグリ
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
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1 エゼキエル34:24-31参照
2 ルカ15:3-7, マタイ18:12-14参照
3 キアラ・ルービック 1997年4月のいのちの言葉より