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この場面の少し前、イエスはエルサレムに入城し、人々から「ダビデの子」と呼ばれています。神の御国の到来が迫っていることを告げに来たキリストに、マタイ福音書では、この「ダビデ王の子孫を意味する呼称」を用いています。
その後イエスは、質問を投げかける人々に、独特な答えを返します。
彼らはヘロデ派とファリサイ派という二つのグループで、ローマ皇帝の権力についてそれぞれ異なる意見を持っていました。彼らはイエスに、皇帝に税金を納めるのは正しいか否かを問い質し、皇帝の側につくのか、敵対するのかと迫ります。どう答えても、何らかの言いがかりをつけようと企んでいるのです。
けれどもイエスは、彼らにさらなる質問をします。「銀貨に刻まれているのは誰の肖像なのか」と。皇帝の肖像だというので、イエスはこの言葉で返します。
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
では、何が皇帝のもので、何が神のものなのでしょうか。
イエスの言葉は、「一切に神が先立つこと」を私たちに思い起こさせてくれます。ローマの銀貨に皇帝の肖像が刻まれているように、すべての人間には神の姿が刻まれています。
旧約聖書の「すべての人は神の似姿に造られた」2といった表現と同じような教えがユダヤ教にもあります。硬貨に彫られた肖像になぞらえ、「人が同じ鋳型で硬貨を鋳造するとき、それらはみな同じである。しかし、王の中の王である、祝福された聖なる方は、すべての人を最初の人と同じ鋳型で鋳造され、しかも誰一人として同じ者はいない」3というものです。
神にのみ、私たちはすべてを捧げることができます。神にのみ私たちは帰属し、神のうちにのみ、私たちは自由と尊厳を見出します。どんな人間、地上の権力も、神に対する忠誠と同じものを私たちに求めることはできないでしょう。
正しく神を知り、神の位置づけができるよう、私たちを助けてくれるのは、やはりイエスです。イエスにとって「愛するとは、思いも心もエネルギーも、命すらもかけて御父のみ旨を果たすことでした。イエスは、御父がもっておられたご計画のために、ご自分のすべてをお与えになったのです。福音には、イエスが常に完全に御父の方に向かっておられた姿が描かれています。…愛するとは、愛するお方の望みを果たすことです。それも中途半端にではなく、私たちのすべてを尽くし、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして』果たすのです。…このように生きるため、私たちには、本当に徹底的な姿勢が求められます。神にすべてを差し出す必要があり、それ以下はあり得ません。心のすべて、精神のすべて、思いのすべてが求められるのです。」4
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
私たちは、生きている中で、しばしばジレンマに陥ったり、難しい選択を迫られて、安易な抜け道への誘惑に駆られたりします。ここでイエスも、主義主張の異なる二択を突き付けられます。けれどもイエスにとっては、愛が第一に来ること、神の御国が到来することが何にも先立つ、ということは明白です。
私たちもこのみ言葉を自身に問いかけてみましょう。私たちは、名声を得ることや、輝かしいキャリアなどに心を奪われていないでしょうか。成功者やインフルエンサーになることに憧れていないでしょうか。本来神が占めるべき場所を、他のものが占めてしまってはいないでしょうか。
イエスはこのみ言葉をもって、私たちが真剣に自分の価値観を見直すよう呼びかけ、人生の質を変えることを提案しておられます。
それに応えるために、私たちは自分の心の奥深くにある声に耳を傾けることができます。その声は、ときにか細く、他のさまざまな声にかき消されているかも知れません。それでも、聞き分けることは可能なはずです。
この声は、私たちに、絶えずきょうだいを愛する方法を探し、世の流れに逆らっても、たゆまずこの愛の道を選ぶ心を新たにするようにと、促します。
他の人たちと真摯な対話を行い、共にさまざまな課題に立ち向かいたいと願うなら、この声に耳を傾けることは、そのための土台を築く良い訓練ともいえます。それは、一人ひとりが社会のために責任ある行動をすることから逃げるのではなく、むしろ、共通善のための無償の奉仕に、自分を差し出すということです。
ディートリヒ・ボンヘファーは、ナチズムに対する市民的抵抗のために投獄され、処刑されるに至りますが、獄中で婚約者にこう書き送っています。「私が言う信仰は、現世からの逃避ではなく、世を耐え忍び、世があらゆる苦難をもたらそうとも、世を愛し、世に忠実であり続ける信仰だ。私たちの婚姻は、神の地で共に生きるという決意であり、地上で働き、何かを創造する勇気を、私たちの内に強めるものでなければならないのだ。私は、地上に片足だけで立とうとするキリスト者は、天国においても片足のみで立つことになるのではないかと恐れている。」5
皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
レティツィア・マグリと「いのちの言葉」編纂チーム
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1 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
2 創世記1章26節参照
3 Mishnà Sanhedrin(ミシュナー・サンヘドリン)4,5 (ユダヤ教のモーセ五書トーラーに関する
註解や議論:口伝律法 を集成した文書の一つ)
4 キアラ・ルービック「いのちの言葉」2002年10月
5 ディートリヒ・ボンヘファー, マリーア・フォン・ヴェーデマイアー著『婚約者との往復書簡 1943-1945』
新教出版社 1996.12(但し引用文はイタリア語原文からの私訳)
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。