エマオの村へ向かう道。イエスの二人の弟子が歩いています。夢破れ、計画も立ち消え、師と仰いだイエスと過ごした日々、強烈な思い出の数々はもはや霧散し、弟子たちは元いた家へ帰る道を歩んでいます。イエスと出会う前の、元の生活に戻ろうとしているのです。イエスが十字架につけられてまだ三日しか経っていませんが、弟子たちの間には落胆、恐れ、疑いの空気が蔓延(まんえん)していました。
この二人は、エルサレムから離れ、叶(かな)えられなかった夢を捨て、イエスとその教えから遠ざかっていくところでした。イエスに従うことで実現したかった計画も、投げ出すことにしたためか、「暗い顔をして」いました。
同じような状況に、私たちも遭遇することがあるのではないでしょうか。さまざまな岐路に立たされ、自分を見失ってしまうとき。今の辛さから逃げ出すために、あきらめて、後戻りすることが、唯一残された道だと思えるとき。
「エマオの宿とは、誰もが経験したことがあるのではないでしょうか。何もかも失ったと感じるような暗い夜、失望の道を歩んだことのない人などいるでしょうか。キリストは私たちの心の内に死んでしまった……地上にイエスと呼べる方はもうおられない。」2
一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。
道すがら、見知らぬ人が二人に近づきます。都で起こったばかりの出来事を知らない様子です。その人は、まさに二人が味わっている苦い思いや、救われない気持ちを引き出すような質問を投げかけます。まず二人の話に耳を傾け、それから聖書に書かれていることを説明します。そこにはまさに対話があり、この出会いは二人の心に、忘れ得ないしるしを刻みつけました。それはまだ、この人がイエスだとは気づいていないのに、一緒に泊まってほしいと願うほどでした3。
主に私たちと一緒に留まってほしいという願いは、福音書の中で最も美しい祈りの一つかもしれません。復活の主に弟子たちが向けた最初の願いであり、また、誰もが願うことのできる祈りであることには、感動を覚えます。
二人の弟子の目は、その人がパンを裂いたときに開きます。やっとイエスだと分かったときの喜びが、仲間たちに復活が起こったことを知らせにエルサレムに引き返させるのです。
一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。
キアラ・ルービックはこう書き残しています。
「私たちフォコラリーナが初期から体験した、真ん中のイエスとの生活を説明するのに、この言葉ほどぴったりな言葉はないでしょう。イエスは常にイエスです。たとえ霊的に存在するだけだとしても、イエスがおられるなら、聖書を紐解(ひもと)いてくださり、その胸にはご自身の愛、いのちが燃えています。それがイエスだと気づくとき、懐かしさでいっぱいになり、『主よ、一緒にお泊りください、もう日も傾いていますから。あなたなしには、夜は真っ暗なのです』と言わずにはいられなくなるのです。」4
夜とは、暗やみ、未知のものの象徴です。いつも私たちに寄り添っておられるイエスの存在を信じられず、それゆえに光を見出だせない状態を指しています。
夜とは、兄弟同士の殺し合い、権力と金儲けのために計画され続ける戦争により、傷つけられ、暴力を浴びている私たちの星を覆っているものです。
夜とは、不平等や抑圧を嘆く声すら持たない何百万もの人々が生きている状態です。
では、私たちはどうしたら、必ずしも期待通りに現れるわけでもない、イエスの存在に気づけるのでしょうか。イエスが私たちと一緒に歩んでおり、ご自分の存在のしるしを示そうとされていることを、どうしたら理解できるのでしょうか。特に、イエスがご自身を現わされ、私たちと共に留まってくださるためには、どうしたらよいのでしょうか。
こうした問いに対する答えは、いつも出せるわけではないでしょう。けれど、このように問うことで、イエスの探求をあきらめず、なかなか目に見えない旅の同伴者から目を逸(そ)らさず、お互いの愛を生きることで現存してくださる方に気づくよう、促されて生きることができます。
エマオへの道は、私たちの歩む道すべての象徴です。主と出会う道、心に喜びを取り戻せる道、キリストが復活したことを、共に証しする共同体へと引き返す道なのです。
一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから。
パトリツィア・マッツォーラと「いのちの言葉」編纂チーム
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。

