Word files: Japanese English Spanish Portuguese Vietnamese
迫害の手が身に迫り困難を極める中、使徒パウロはフィリピの信徒たちに手紙を書いています。
その中でパウロは、自分の愛する信徒たちに、殆んど命令するかのように「重ねて言います。常に喜んでいなさい」と語ります。
でも、「常に喜びなさい」と命じることなどできるものでしょうか?
私たちの周りを見回すなら、心安らかではいられない状況を目にしたり、喜びなど到底感じられないこともしばしばです。
日常生活の不安や心配事、社会の不正、国家間の紛争などといった現実を前にして、私たちは圧倒され、落ち込んで自分の殻に閉じこもらないようにするだけでも、かなりの努力が必要です。
にもかかわらずパウロは、私たちにもこう語りかけるのです。
主において常に喜びなさい。
パウロは、いったい何を根拠にこのように言えるのでしょう?
キアラ・ル-ビックは、語っています。「どんな困難にあろうと、私たちが常に喜んでいられる理由が一つあります。 それは、キリスト者として真剣に生きることからくる喜びです。
キリスト者として懸命に生きることによって、他ならぬイエスご自身が、私たちの内で完全に生きるようになるからです。
『イエスと共にいる』これほど大きな喜びが他にあるでしょうか。
イエスは、真の喜びの源です。私たちの人生に意味を与え、光をもって導き、過去の出来事、将来私たちを待ち受ける試練や誘惑、これら全てを乗り越える力を私たちに与えて下さり、不安や恐れから解放して下さるお方です」1
キリスト者の喜びは、単なる楽観主義でもなく、豊かな生活が保障されているからでもありません。健康でとした若者にある喜びとも違います。
それは、心の深くで「神と出会う」ことからくる喜びです。
主において常に喜びなさい。
パウロは続けます。この喜びがあるなら、自ずと他の人を温かく迎え、自分の時間をそのために使うようになるでしょうと。2
そして別の箇所で「受けるより、与えることの方に、より大きな喜びがある」3というイエスの言葉を明記しています。こうして、イエスと共にいることからくる心の平和は、周りの人に伝わっていきます。
最近の出来事です。シリアの多くの若者たちが戦禍の中、身の危険も省みず、福音の経験を分かち合い、相互愛の喜びを体験するために集いました。彼らは集いの後、そこでの体験を周りに証しする決意を胸に帰途につきました。
一人の参加者が話してくれました。
「すべてを失った人、最愛の人が殺されるのを目にした人など、悲しみ、希望、英雄的な神の愛への信仰が次々に語られました。
その後、『いのち』を周りの人々にもたらそうとする若者たちの熱意に動かされた多くの人の協力で、各地でフェスティバルが開かれました。それだけでなく、若者たちは、戦争で中断された学校の校舎や公園の修復のためにも働きました。また、多くの難民の家族のために支援の手を差し伸べました」と。
この経験をきいて、キアラの次の言葉を思い出しました。
「キリスト者の喜びは、ちょうど、涙のあとに輝く太陽の光のよう、あるいは、血に染まった大地から咲き出る一輪の薔薇の花のようです。
その喜びは、苦しみから抽出される愛の真髄。その喜びは、唯一で、しかも天の国の前触れのように、使徒的な力に満ち溢れています」4
戦禍の中で、周りの人々に、神の愛への信頼と希望を証しするシリアの若者の姿に、初期のキリスト者たちの力強い証しをみる思いです。
シリアの皆さん、ありがとう!
レティツィア・マグリ
1 キアラ・ル-ビック、喜びへの招き、チッタノーバ誌31(1987/22)p.11
2 フィリピ4・5参照
3 使徒言行録20・35参照
4 キアラ・ル-ビック、若者の聖年、ローマ1984年4月12日