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人は誰でも、人生の中で、もう無理!と感じてしまうことが何度かあるのではないでしょうか。
詩編121編の作者も苦難の中にあって、自分が必要としている助けはどこから来るのだろう、と自問しています。
その答えは、彼が信頼する神への信仰宣言そのものです。主が民の一人ひとりを、そして民全体をどれほど見守ってくださっているかを、確信を持って語るさまは、それが作者自身の深い体験から生まれたものであることを物語っています。
私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。1
実際、この詩編はこの後、力強く愛に満ちた神、万物を創造し昼夜を問わず守っておられる神を告げ知らせています。主はあなたの「足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守ってくださる」2のだと作者は強調し、読む人を説得したいという熱意が感じられます。
苦難に取り囲まれながらも、作者は自らの目を上げ3、自分の手の届くところを超えて、すがるものを探し求め、答えを見出しました。
その助けは、あらゆる被造物を創り出し、いのちを与えた方、どんなときも支え続け、決して見捨てない方から来る4、ということを作者は体験したのです。
その体験は強いもので、昼夜を問わず民を見守っておられる神、「イスラエルを見守る方」5を固く信じ、そのことを他の人々に伝えずにはいられないほどなのです。
私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。
キアラ・ルービックは書いています。確信が持てず、苦悩や不安の中にあるとき、「神は私たちがその愛を信じ、決心して信頼することを求めておられます。……こうした試練にあってこそ、私たちが神の愛を本当に信じていることを示すようにと、神は望んでおられます。それは、神が私たちの父であり、私たちのことを考えておられると信じることです。私たちのあらゆる心配ごとを神に委ね、背負ってもらうことです」6と。
では、神からの助けはどのようにして、私たち一人ひとりに届くのでしょうか。
聖書には、モーセ、エリヤ、エリシャ、エステルなど、民や特定の人に対する神の慈しみの道具となるよう召された男女の行動を通して、それが表された多くのエピソードが記されています。
私たちも「目を上げれば」、意識的であるかどうかはともかく、私たちに助けを与えてくれる人々の働きに気づくことができるでしょう。一人ひとりの心を造られたのは神ですから、私に届いた善の源である神に感謝し、さらに人々に証しすることができるでしょう。
ただ、自分の中に閉じこもってしまい、困難な時に自分の力だけでどうにかしようと考えているうちは、それに気づくのは難しいでしょう。
けれども心を開き、周りを見渡し「目を上げる」なら、神の子らに恵みを与える神の道具に私たち自身もなり得るのだと分かるでしょう。他者の必要に気づき、その人にとっての貴重な助け手となることができるのです。
私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。
コスタリカのロジェの体験です。「私はある支援団体に所属し、活動の一つとして大人用おむつを配布支援しています。ある日、知り合いの司祭から連絡があり、支援を必要としている信者のために、おむつを取りに行く人を送ります、とのことでした。その人を待っていると、家の前を近所の人が通りかかりました。彼女の生活が大変苦しい状況にあるのを知っていたので、手持ちの卵7個と他の食料を渡しました。彼女は、自分や夫、子どもたちに食べるものが何もなかったため、びっくりしていました。私は、イエスが私たちの必要を気遣っておられ、『求めなさい。そうすれば、与えられる』(マタイ7・7)と招いておられることを、彼女に伝えました。彼女は喜んで、神に感謝しながら家に戻りました。
司祭から派遣された人は午後にやってきました。私はコーヒーを淹(い)れて、トラック運転手だという彼と話しながら、何を運んでいるのか聞いてみました。すると彼は「卵だよ」と答え、卵を32個、私にプレゼントしてくれました。」
私の助けは来る 天地を造られた主のもとから。
シルヴァーノ・マリーニと「いのちの言葉」編纂チーム
いのちの言葉は聖書の言葉を黙想し、生活の中で実践するための助けとして、書かれたものです。
1 日本聖書協会「新共同訳」
2 詩編121・3
3 同 1(参照)
4 同 8(参照)
5 同 4
6 キアラ・ルービック「Conversazioni」p. 279 ローマ、2019