一致の精神 ③

それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 (マタイ 7・24).

 

福音書のイエスの言葉は、実践して生きるためのものです。イエスは私たちに言われました。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ 6・63)。そのため私たちは、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(ルカ 6・31)といったイエスの言葉を受けとめ、まさに今、ここで、置かれている状況の中で、そばにいる隣人との関わりの中で、実践に移すことができるでしょう。神の言葉をただ考察し、それについて話し合い、記憶し、祈るだけでなく、何よりも大切なのは、それを生きることなのです。

また、日常的な生活の場面で福音を実践した具体的な体験を互いに、謙虚に分かち合うことができます。福音の体験の良い効果や実りを分かち合うこともできるでしょう。いのちの言葉は、誰でも、どのような状況でも生きることができるということを、私たちは発見します。福音の体験を分かち合うことによって、私たちは神の言葉をさらに喜んで受けとめられるよう互いに助け合い、いのちの言葉の多様な生き方を学び合います。これは、私たちが「イエスのみ言葉を共に生き」、交わりの霊性のうちに共に神のもとへ行くための一つの道なのです。

 

日常生活のちょっとした瞬間、あるいは人生の大きな選択を前にしたとき、どうすれば「これが今、神様が自分に望んでおられることだろう」と分かるのでしょうか。

キアラと初期の仲間たちが最初に発見したことは、神のみ旨は福音のなか、み言葉の内に示されているということです。そして神は、特に愛について記されている箇所に光を与えてくれました。

 

防空壕のなかで 

フォコラーレが始まった頃。戦争によって、人が自然に心に抱くあらゆる夢や理想が奪われました。「すべては過ぎ去る。決して破壊されない理想は愛である神様だけなのだ」とキアラたちは悟ります。空爆のたびに防空壕に、ただ小さな福音書だけを持って駆け込みました。ロウソクの光の下で、福音書の頁をめくり、神の「言(ことば)」が人となられたイエスのうちに、過ぎ去ることのない真理があることが分かりました。そして、み言葉を一つひとつ生き始めたのです。

「隣人を自分のように愛しなさい」(1)。防空壕に駆け込むことのできないお年寄りの手をひきました。

「与えなさい。そうすれば与えられる」(2)。今日最後の卵も、ドアを叩いた窮乏の人に与えました。その日のうちに、別のところから一袋の卵が届きました。

 

まず私から

今この時代にあっても、み言葉はなおも同じような魅力を持って私たちを惹きつけるものでしょうか?

誰の目にも明らかなように、私たちを取り巻く社会はめまぐるしさを増し、既存の価値観がすべて崩れ去りつつあります。私たちは、暗い地下室の中にいて、光を求めているようです。

まず私たち自身がみ言葉を実践し、「福音によって照らされる」よう努め、それから周りに働きかけることが求められているのではないでしょうか。

 

み言葉は私たちをひとつに結ぶ 

『いのちの言葉』を生きることによって、フォコラーレの共同体的な精神は生まれてきました。初期の頃のキアラの手紙には次のようにあります。

「どのようにして、二人の人の心はひとつに溶け合うのでしょうか?

二人の心が『生きている』とき、つまり人間的な皮が剥ぎ取られ、『いのちの言葉』を受肉し、二人が生きたみ言葉そのものになるときです。

二つの生きたみ言葉は、ひとつに溶け合うことができます。一方が生きていないなら、他方も相手とひとつになることはできません」と。

私たちをひとつにするのは、み言葉の「いのち」なのです。

 

体験の分かち合い 

み言葉を実践するだけでも努力がいるものですが、神様はもう一歩先に進むよう呼びかけておられます。み言葉を実践し、愛を生きる人に、神はご自身を現わされます(3)。その恵みのおかげで私たちは様々な体験をし、たくさんの光をいただきますが、それは受けた人だけのものでなく、他の人たちのためでもあるのです。

フォコラーレの精神の土台は、お互いの愛を実践すること。それには、物質的な富を分かち合うだけでなく、精神的な富を分かち合うことも含まれます。

聖パウロは「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」(4)と諭(さと)しました。世俗的な考えも多くはびこり、マスコミによる情報操作に踊らされる現代に私たちは生きています。み言葉を生きることで、「地上のこと」ではなく「天上的な」話題で心を満たす術を学んでいきたいものです。

 

(1) マタイ22・39

(2) ルカ6・38参照

(3) ヨハネ14・21参照

(4) コロサイ2・2