一致の精神 ⑩

 

私たちが「お互いの愛」を生きるとき、教会は一つの体、一つの家族であることを体験します。すべての人を例外なく愛される神様に倣い、私たちも心の扉を開け放ちましょう。

 

み国が来ますように

主の祈りの「み国が来ますように」という箇所が、教会のために祈っていることを私たちは気づいていないかも知れません。

み国のモデルは天にあり、イエス・キリストによるお互いの愛が100%に満ちているところでしょう。み国の到来を祈るよう教えられたイエスはまた、「二人または三人が私の名によって集まるところ、その人たちの間に私はいる」(1)と言われました。

まさにこのみ言葉が実現されるところに教会が生まれます。それは単に場所をさしたり、限られた人たちによって構成されるのではなく、愛そのものでおられる神様の現存の下に集う共同体(2)が教会です。

 

交わりと愛の家

誰かを真に愛するとき、私たちはその人の成長を願い、喜びも苦しみも共有したいと望みます。そして、「お互いの愛」が人生の土台となるよう努めるなら、家族、職場など日々出会う人を愛し続けることで、私たちの心は少しずつキリストの心の大きさにまで広げられ、すべてのキリスト者、すべての人が、自分の友であり兄弟となっていきます。

こうして教会(それを構成する人たち皆)は家族になります。また、家族のうちではすべてが共有されるように、教会に関わることもすべて「私たちのこと」として関心の対象となるでしょう。

例えば、教会の位階制度(司教様、司祭方)や教えについて。また、聖霊の促しから生まれた様々なカリスマ(賜物)の修道会や、聖人たちの生きた証しは私たちのものとして。秘跡の恵み、一致を体験する交わりのときも、私たちのこととして大切にしますし、教会内の活動やグループも同様です。自分の属さない活動の発展も、私のこととして喜びます。すべては私と無関係ではなく、ひとつの家族の中のことだからです。

このように、教会が「私の家」なら、どこかが傷ついたり、分裂や苦しむ部分があれば、何とか手を施したいと思うでしょう。私たちはそこに、キリストの苦しみを見いだすからです。

 

教会の「心」を持つように

主イエスがこの世に来られたのは、私たちを救うため(3)、不完全なものを完全なものとするため(4)でした。完全な愛とは、安全地帯にいる99匹を置いて、迷った一匹の羊を探す愛であり、出て行ってしまった息子を迎え入れる愛です。

また、イエスは命を賭けてすべての人が互いを兄弟と認め合い、人類が一つの家族になるようにと御父に祈りました。教会もイエスに倣い、すべての人たち、特に最も弱く助けを必要とする人たちに向かって開かれています。その証しとして、マザーテレサに代表される、教会の長い歴史に存在する無数の聖人たちの姿があります。彼らの愛はすべての人、特に最も見捨てられた人たちに注がれました。愛が届くところには同時に神の存在も届くと確信していた人たちでした。

キアラ・ルービックもこう書いています。

「善のかたちはさまざまです。家族や親戚、友人に善を行う人もいます。生涯にわたって世のため人のために善を行う人もいます。さらには、自らの死後も、何年も何世紀にもわたって善を『行う』人もいます。これが聖人です。彼らの内に生きるのは、もはや自分ではなく、その人の内に神が生きているからです」(5)

教会の子である私たちも、特に助けが必要な人を心に懸け、分け隔てなく迎え入れる心を持つよう、招かれています。主イエスが教えて下さった、神のみ国の実現のために、教会とともに祈り、貢献していくために。

 

(1) マタイ18・20

(2)第二バチカン公会議では、イエスの霊的な現存の様々なかたちが示された。歴代の教皇も言及するように、教会とはまさにそうしたイエスの現存によって結ばれるキリスト者の共同体である。

(3)ヨハネ12・47

(4) マタイ5・17

(5)キアラ・ルービック『Scritti Spirituali I』 Città Nuova 1978, P. 237