一致の精神 ④

 

防空壕の中、ロウソクの火の下で読み始めた福音書。特に目を引いたのは隣人愛についてイエスが語ったみ言葉でした。

 

どんな人を前にしても

隣人愛について、福音書の次のみ言葉がキアラの目にとまりました。

“ わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである ”(1)

キアラは言います。「ハッとさせられました。どんな相手も差別やえり好みはできない。国が違う、世代が違うとか、外見がいい悪い、感じの良し悪し、裕福か貧しいかといった見方はふっとびました。イエスはどんな人のうちにもおられるのだ、と。」

みんなを愛する。美しい言葉ですが、実践はなかなか難しいもの。自分の殻から一歩踏み出すのは勇気がいりますが、それができたとき、神様からの助けも与えられるという体験を、多くの人がしています。キアラや最初の仲間たちも、試行錯誤しながら恵みに照らされ、「相手の中のイエスを愛する」「自分から先に」「相手とひとつになる」などいくつかのキーワードを発見していきました。

 

自分から先に、相手の身になって

誰かが親身になってくれる有難さを体験すると、自分も同じようにしたいと誰しも思うことでしょう。相手から先に愛されたと感じるときは特にそうです。

目の前の隣人の気持ちを思いやる。電話の向こうの人の悩みを自分のことのように考える。一通のメールも、相手の身になって書き送る。たとえ小さなことでも、聖パウロのいう「すべての人に対して(罪以外なら)同じように」(2)することで、押し付けではない愛を伝えることができるでしょう。

 

兄弟を愛した後の実り

 イエスは「与えなさい。そうすれば与えられる」(3)と言われました。私たちの小さな努力で、相手に喜んでもらえた嬉しさは、心を温かくしてくれるものです。愛が返ってくるなら、心はさらに豊かにされるでしょう。

たとえうまくいかなくとも、自分のできることを果たしたのなら、どこかで神様は報いて下さるでしょう。「一日中兄弟を愛するよう努めたら、眠りに就く前に、心の中に神様とのつながりを見出した」とキアラもよく語っていました。

隣人愛の実践は、一つひとつは小さな行為かも知れません。でもその中に、人の思いを超えた何か、神からいただくいのちが芽生え始めます。人と人の間に福音的な愛の連携が生まれることで、このいのちの種が育ち、私たちの社会が抱える多くの問題の解決策を見出していかれるのではないでしょうか。

 

(1)   マタイ25・40b

(2)   一コリ9・22参照

ルカ6・38参照