一致の精神 ⑧

 

フォコラーレの精神そのものである「一致」を実現するのはイエスご自身であり、私たちの努力だけには依りません。一致が何によって生まれ、私たちはいかにして一致の道具になれるかを考えるとき、「見捨てられたイエス」は欠かせない存在です。

 

なぜ私を見捨てられたのか

「見捨てられたイエス」について、キアラは実に多くの言葉を遺しています。その中の一つに耳を傾けてみましょう。

「苦しみという名の神秘を前に、私たちは途方にくれ、立ちつくします。

イエスの『神よ、なぜ私を見捨てられたのですか』(1)という叫び。あの叫びの瞬間は、イエスの味わった苦しみの頂点と言えるでしょう。すでに受難は始まっていました。恐怖、苦悩。弟子たちの裏切り、死刑の宣告。拷問、侮辱、十字架刑。最後に『神よ、なぜ』と叫んだとき、イエスは心の最も深いところで闇に突き落とされたのです。『私と父はひとつである』と言われていたイエスが、神との分裂、一致の喪失を体験したのです。

何が起こったのでしょうか。あの瞬間イエスは、私たち人間を愛し抜くために、人類のすべての悪、罪を背負われたのです。ご自分を完全なる無とし、人類が再び神と一致し、人間同士が一致するための道を開かれたのです。」(2)

 

無限の愛

 このように、信じがたいほどの苦しみを通して、イエスは私たちに「一致の鍵」となる真の愛を示されました。その愛とは、隣人のために自分を無にするほど、我を与え尽くすものだということを。

このイエスの叫びは、2000年前に終わった話ではなく、今も私たちの日々の歴史に響き渡る神秘です。不安を抱え、絶望し、敗北のうちにある人。裏切られ、信じるものや、生きる意味を失った人。イエスは今日(こんにち)も、そんな私たち一人ひとりとご自分を同じ者とされます。「私の最も小さな兄弟の一人にしたことは、私にしてくれたことなのである」(3)と、イエスご自身が苦しむ人の中におられることを明かされます。それゆえ、十字架上で示されたイエスの愛に、私たちが愛で応えるとは、兄弟を愛すること、特に苦しんでいる人を愛することを意味するのです。

 

死から復活へ

もし、苦しみに遭うなら、私たちはどのような行動をとるでしょうか。多くの場合、いくら自分で考えても「なぜこんなことが?」という問いかけへの答えは見つからないでしょう。あるいは、苦しみを振り払おうと、逃げ道を作っても、一時しのぎのものだったりします。

それでは、人生で起こる様々なできごとの背後に、神の愛が存在することを信じるならどうでしょうか。この世の罪を贖ったイエスの苦しみと同じように、自分や他の人の苦しみにも意味があることに気づくことができるでしょう。

そして、あり得ないようなこと、不当な苦しみ、罪なき人たちの苦しみ… そんな状況のなかに、苦しみを愛に変えることのできる、人となられた神の存在を感じることができるでしょう。

苦しみの中で、私たちは叫びをあげるイエスと出会います。このイエスと向き合い、受け入れてみましょう。この一歩はやがて、冷たい利己主義の壁を破り、絶望的にさえ見える状況に、愛の息吹をもたらすことにつながるでしょう。

 

(1)      マタイ27・46 およびマルコ15・34参照

(2) キアラ・ルービック 1999年5月16日スイス・ルツェルンでの家庭大会での講話より

(3) マタイ25・40参照