一致の精神 ⑤

 

フォコラーレの精神の中心である「一致」を実現するために欠かせないのが、相互愛です。

 

人間のDNAに

「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」(1)。

イエスが「私の新しい掟」として説いたこの「相互愛」は、キリスト教の愛の特徴です。一方通行ではなく「行って、返ってくる愛」は、相互のもの。一人では実現できず、相手が必要です。人はみな、無意識のうちにも、愛すること、愛されることを望んでいるでしょう。

母子の関係にも、愛の「相互性」が見て取れます。お母さんは赤ちゃんのために、自分のすべてを与えますが、同時に、笑顔や成長の様子など、赤ちゃんからも多くの喜びを受け取るでしょう。子供も少し大きくなるとお母さんのために何かしたくて、実際にはできないことでも精いっぱいお手伝いしようとしたりします。

受けるだけでなく、自分からも相手のために何かしたい…、この「相互性」への望みは、日常生活の各所にも見られます。コンサートに行けば、観衆はアーチストの歌を聴いて楽しむだけでなく、マイクを向けられれば一緒に歌うことでさらに満喫します。また広告やテレビ、ネットを見ても、「お客さん」側の働きかけを促すものが増えているのに気がつきます。相互愛とまでは言えないにせよ、人は他者との「行き交う関わり」を心の深いところで必要としているようです。それは、人間のDNAに刻まれた、神様の愛のしるしかもしれません。

 

弱さや限界も役立つ

とはいえ、人から受けるよりも自分が与える方が「役立っている感」「すぐれている感」を得られ、易しく感じる場合もあるでしょう。自分は他者の手助けが必要だと気づくなら、己の弱さや限界を認めることにもなります。でも、私たちが自分の弱さをありのまま受け容れ、肩ひじ張らぬ自由な心で相手の前に立てるなら、それは「与え、受け取る」相互の関わりの最初の一歩になりえます。相互愛を生きるために、私たちの抱える限界自体が、実はとても貴重なものなのです。

「人間にとって最もつらいことは、人として誰からも必要とされないと感じることです」というマザー・テレサの言葉に、共感を覚える人も多いでしょう。多くの財産があっても、分かち合う相手のない孤独な生活ならば、本当の幸せや自らの真の存在価値を見出すのは難しいでしょう。「人間は分かち合うことで幸せになる」という脳科学データもあります。

 

「相互愛」の位置づけ

教会の歴史をふりかえってみると、キリスト者としての完徳は、世を捨て修道院に入ることで得られるとされた時代が長く続きました。「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟も、聖アウグスチヌスの会則に始まって、つねに修道生活の土台とされてはきましたが、一般信徒の信仰生活に根付くには長い時間を必要としました。

20世紀に入り、特に第二バチカン公会議を通して、教会は「修道者、司祭、信徒は唯一の体を成し、すべての人が聖性に招かれている」ことを宣言しました。また聖ヨハネ・パウロ二世は、教会が「交わりの霊性」を必要としていると説き、こう語っています。「もし私たちが本当にキリストのみ顔を観想したのであれば、私たちの司牧計画は『私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい』(2)という新しい掟から霊感を受けないではいられないでしょう。」(3)

 

キアラ・ルービックと相互愛

キアラ・ルービックは、生涯を通じて「相互愛」の大切さについて語りました。フォコラーレの初期に記された彼女の言葉をいくつかご紹介しましょう。

「神様は、私を隣人にとっての贈り物として、お造りになりました。そして、隣人を私にとっての贈り物として、お造りになりました。」(4)

「出会う兄弟一人ひとりに、あなた自身を贈り物として差し出して下さい。それはイエスに、あなた自身を与えることです。そして、今度はイエスが、あなたにご自身を与えて下さるでしょう。それは『与えなさい。そうすれば与えられる』という愛の法則です。…精いっぱい兄弟に仕えて下さい。それは神に仕えることです。やがて兄弟はあなたのもとに来て、あなたを愛するでしょう。

兄弟的な愛の交わりの内で、神のあらゆるお望み、掟が成就されます。『私はあなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい』という掟が。」(5)

 

(1)   ヨハネ13・34

(2)   ヨハネ13・34

(3)   教皇ヨハネ・パウロ二世 使徒的書簡『新千年期の初めに』42

(4)   1949年9月2日の手紙 (キアラ・ルービック著『L’amore reciproco』 Città Nuova Ed. 2013 p 23)

1949年11月12日の手紙(キアラ・ルービック著『L’amore reciproco』 Città  Nuova Ed. 2013 p 20-21)