一致の精神 ⑫

 

キアラたちは「二人、または三人が私の名によって集まるところに私はいる」(1)というみ言葉を生きた体験から、このイエスを「真ん中のイエス」と呼ぶようになりました。

 

交わること

聖霊に導かれるままに愛を生き始めたキアラと仲間たちは、ほどなくして貧しい人たちや出会う人たちと、持ち物や、み言葉を生きた実りを分かち合うようになりました。この体験は一つの発見につながりました。それは、隣人を自分のように愛し、物も心も分かち合う「交わり」を生きるなら、長い瞑想や苦行をせずとも、神様との深い一致(完徳)に到達できるということでした。

「交わる」ことは、自分たちの間、そして神様とのつながりを築く土台となり、個人的に徳を積むのではなく、兄弟と共に神様に向かう道が示されました。彼女たちが福音の中から「交わり」に関するみ言葉を選んで実践したことも、ごく自然なことでした。当時を回想しキアラは語っています。

「『二人、または三人が私の名によって集まるところ…』というみ言葉を生きようとしていたある日、特別な恵みともいえる体験をしました。私たちは天に包まれ、各々の魂のうちに天国が訪れて、イエスが霊的に現れるのを感じたのです。

エマオでの出来事(2)のようにイエスは、この世が知らない“炎”を私たちの心に燃え立たせ、人や物事は姿を消し、ただ神の御前(みまえ)で大切なこと、美しいこと、善いことだけが現れました。

私たちの間におられるイエスを何かに例えるなら、一致に結ばれた弟子たちという柱に支えられた神殿のようでした。どんな場所にいようと ―街の喧騒の中、キリスト教とは無縁の国々、たとえ迫害の牢獄にあっても― その神殿では、霊的な聖(せい)櫃(ひつ)から聖香油の香りが、神に向かって立ちのぼっているのです」(3)

 

「私の名によって集まる」とは

イエスの名のもとに集まるとは何を意味するのでしょうか。それは、イエスの愛のうちに、イエスの望むことを行い、「皆が一つになる」ということです。

「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」とあるように、イエスは何よりも私たちが相互愛を生きるよう望んでおられます。日々の生活、祈り、黙想、ミサ、何をするにも、私たちの間の相互愛が問われるのです。

「あなたが祭壇に供え物を献ようとし、兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら、まず兄弟と仲直りをしてから供え物を献げなさい」(4)とイエスは仰いました。

相互愛の掟そのものは特に新しいものではなくとも、その実践を通じてキアラと仲間たちが体験したことは新しいものでした。

ご聖体や聖書のうちに、兄弟の中、位階制度(司教様たちの教え)の中に、復活のイエスが存在され、イエスの言葉通り、二人または三人が互いに愛し合うところにも、復活のイエスがおられること。

こうした体験を通して、キアラたちは教会そのものの本質を深く理解したと言えるでしょう。

初代教会の教父たちもそのことを記しています。オリゲネスは「怖れることはありません。なぜならキリストは天に上げられたにしても、今このときも来られます。二人、三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる』は、戯言ではないのです」(5)と書き、テルトゥリアヌスも「誰か三人が集うところなら、それが一般信徒だとしても、そこに教会が存在する」(6)と説きました。

 

私たちの間に来られるイエス

相互愛によるイエスの現存は、フォコラーレの霊性の特徴として、カトリック教会から承認されました。第二バチカン公会議以降は教会もまた、神が私たちのうち、私たちの間に現存されることを強調してきました。

教皇フランシスコはある日のミサでこう言われました。「霊とは、絶えず私たちを驚かす、御父である神の賜物です。この神は、私たちの内に住まわれ、人間の心を動かします。教会の中で共に歩まれ、いつも私たちを驚かせます。この世界を創造されたように、毎日新しいことを生み出す創造性に溢れた神だからです」(7)

私たちの心を照らし、日々の生活や人生のさまざまな場面で、どのように愛を生きればよいのか教えて下さる聖霊は、「真ん中のイエス」の霊でもあります。

イエスの名によって二人、三人がいるところ… 愛し合う心で私たちが集うとき。私たちの間にこられるイエスの声、つねに新しい聖霊の息吹に心を開いて生きていきたいものです。

 

(1)マタイ18・20参照

(2)ルカ24・13-35参照

(3)「みながひとつになるように」キアラ・ルービック、フォコラーレ出版 p. 35

(4)マタイ5・23-24参照

(5)オリゲネス Is. Hom. 1, 5 p. 13, 223-224参照

(6)テルトゥリアヌス De exhort. Cast., 7: PL2, 971参照

(7)オッセルバトーレ・ロマーノ紙2017年5月9日第106号より私訳